ジム・ソンゼロ『パルス』@シアターN渋谷

2001年の9月11日のアメリカ、ニューヨークでなにが起こったかは今更記述するまでもないだろうが、実はその数日前、隣国カナダ、トロントにてその事件に酷似したシーンが存在する映画が上映されていた。黒沢清の『回路』である。映画終盤、飛行機が建物に突っ込んでいく映像を映画に組み込んでしまった黒沢清に対して、蓮實重彦は「黒沢清9・11犯人説」なるものを冗談交じりに対談の中で語るほどであった(※「映画のこわいはなし」より)。
さて、そのようないわくつきの映画『回路』がアメリカ、ハリウッドにてリメイクされたものが『パルス』である。物語の基本的な構造は変わっておらず、インターネットを通して「なにか」が「侵略」を始め、それに若い二人の男女が巻き込まれる…という核の部分は変わっていない。また、半透明のカーテンや廃墟的空間など黒沢ファンなら思わずニヤリとしてしまうシーンもそのまま残っていて、このあたりは一黒沢ファンとして単純に嬉しい。かといって、その細部までもが完全にコピーされたわけではなく、ハリウッド的なホラーの演出やCGの多用(大量の「なにか」が登場するシーンは笑いと共によくやってくれた!と叫びたくなる)により、これはこれで別の映画としてかなり楽しめる作品となっている。
だが、この『パルス』と『回路』には決定的に異なる部分があるのではないだろうか。それは主人公の男女(『回路』で言えば加藤晴彦麻生久美子)の「なにか」を前にした時の行動の違いだ。『回路』の二人が「なにか」に対しほとんど無力であった(立ち向かったが故に加藤晴彦はなのような末路を迎えた)のに対し、『パルス』の二人は「なにか」に対抗する手段「武器」を持っている。その「武器」がなにであるかは記載しないが、かなり現実的なものである。また『回路』において、「なにか」を召還する装置であった赤いテープが、『パルス』においては封印、拒絶する武器(防具?)となっている点からも、この映画が「なにか」に対してとっているスタンスは一環している。『パルス』において人は「なにか」=「侵略者」に対して勝敗は別として対抗できるのである。
物語の終盤は両映画とも、似たような形になり、結局若い二人は街から脱出していく。だが『パルス』の二人はその「武器」を持った上で街を出て行く。すると、彼らはいつかはその武器をさらに強化し、街の奪還に乗り出すのだろうか。
『回路』のラストは麻生久美子の「私は今、幸せでした」という台詞によって終わる。『パルス』のラストもやはり女性の台詞によって終わるのだがそこで言われるのは「人は環境が変わっても生きてゆく」というような内容だ。この差異を今の僕には明確に示すことができない。二つの台詞に大きな差異はないのかもしれない。しかし、この映画は単純に日本人である黒沢清が撮った『回路』のリメイクであると言い切れない、2007年アメリカで撮られたという確かな刻印があると思う。それの思いは、物議をかもした9・11事件に酷似したシーンがそのまま『パルス』においても再現されていたことにより、さらに強くなった。
映画は時に未来、現実を呼び寄せると言うが、黒沢清が2000年に描き呼び寄せた(かもしれない)ミライとこのハリウッドの『パルス』が呼び寄せる(ようとしている)未来は違っている。もしかしたらこの『パルス』が呼び寄せようとしている未来は先日観た『アイ・アム・レジェンド』と同じ未来なのかもしれない。(田村)

フランシス・ローレンス『アイ・アム・レジェンド』@ワーナーマイカルシネマズみなとみらい

まだ僕が中学生ぐらいだったころに「リドリー・スコット監督、シュワルツネッガー主演でSF映画が撮られる予定」という情報が出回っていたことがあった。当時の僕は『ブレードランナー』によってリドリー・スコット信者となっており、この小さな情報に狂喜した覚えがある。結局、この企画は予算やらなんやらの都合でなくなってしまったようだが、それが2007年末にウィル・スミス主演、フランシス・ローレンス監督の『アイ・アム・レジェンド』という映画として完成したわけだ。ウイルスにより世界中の人間が死滅し、地球にはウィル・スミス一人(と犬一匹)が残された・・・という物語自体は過去のSF映画の中にもいくつか類似したものがあり、とりたてて斬新さはない(実際この映画は三度目のリメイクでもある)。だが、そのリドリー・スコットで予定されていた作品ととフランシス・ローレンスの今回の映画の間にあった時間と共にこの映画は考察されなければならないだろう。
廃墟と化したニューヨークをただ一台疾走していく赤い車は、放置された車によって道をふさがれ停車を余儀なくされる。道には人の姿はまったくなく、ブロードウェイミュージカルの看板などが空しく立ち並びその下には鹿やライオン(!)が生息している。今更こんな事を言うのも見当違いなのかもしれないが、この映画の「物語」は大きな物語の失墜以後の物語なのだろう。それはおそらくリドリー・スコット監督により映画化されようとしていた時もさして変わらなかったかもしれないが、今このような形でこの「物語」が映画になったことは注目すべきなのかもしれない。結果的にこの映画は大きな物語の復活が見えるような形で終わっていく(唐突に神が物語に介入してくる)。だが、あまりに唐突なこの神の介入には疑問を抱かずにはいられない。それ以前に神の不在を象徴するようなシーン(地面に描かれる十字架。これが消えることによって悲劇が生じる)がいくつかあったにも関わらず、ラスト近くのあの「啓示」はなんだったのだろうか。ただ単純に9・11以降のアメリカは未だこのような奇跡的な物語の復活を渇望しているというのだろうか。だとすればウイルスにより吸血鬼と化した人間は、物語を信じなくなった現代人なのか。いずれにしてもこの映画は現代の映画として注目し考察すべき。監督二作目のフランシス・ローレンスの今後に期待する。(田村)

ゆらゆら帝国『LIVE2007ツアーファイナル』@SHIBUYA-AX

今のゆら帝のライブは一度は行ってみた方が絶対にいい。本気でお勧めします。

最近の「空洞です」以降のゆら帝の方向性は確かに無邪気な称賛を浴びることをバンド自身が猛烈に拒絶しているようにも見えるし、非常に掴み所も落とし所も見えにくいテーマに対峙しているので、シンプルな音楽的快楽やロックバンドとしての格好よさをゆら帝に求めるとしたら、数年前のゆら帝が最盛期だとする多数派の意見も正しいし、切実である。

だけど、やはり「空洞です」で、現行の音楽を取り巻くシーンや状況に対して、無抵抗としての抵抗(この辺は七尾旅人に通じる問題意識を持ちながら、真逆のアプローチを試みる坂本さんの姿勢は非常に興味深い)を客を置いていく勢いでストイックに追求していったゆら帝の切実さは、僕は絶対的に感銘を受けたし、やはり「空洞です」は日本ロック史では超異質で、また評価されるべき作品だったと思う。

そんなことを踏まえて、今日のライブだったわけだけど、結果としては今まで二回行った「空洞です」以降のライブより断然「空洞です」の曲がライブとしてのパワーを増していて、説得力があったし、単純にカッコよくなっていた。普通のバンドなら、これは両手を挙げて大歓迎すべき事態なのだけど、ゆら帝の場合は実に複雑でもある。正直、今までのライブでは「空洞です」の曲は全くノレなかったし、抑揚やカタルシスが欠落しまくっていて、しかしそのストイックな姿勢に感動していた僕みたいなひねくれたゆら帝ファンにとっては、今日の力強いライブは無邪気に喜べなかったりもする。だけど、この変化をゆら帝側の妥協だとか、凡庸なポップシステムに遂に取り込まれてしまったと嘆く一部のゆら帝ファンの感想も理解はできる。理解はできるのだが、この転調は一概に否定できるものでは絶対なくて、むしろtoeやZAZEN BOYZ、曽我部恵一BANDROVOなどの現在の日本の最前線で活躍する超トップクラスのライブバンドと比肩する、もしくは凌駕するライブを展開し続けてきたゆらゆら帝国の圧倒的なキャパシティに、遂に「空洞です」の新曲たちがライブ空間において不可欠な肉体性を伴って追い付いた、という見解も持てる。そして僕の考えはこちら側に近い。

否定、肯定、どちらの意見を持つせよ、受け取る側に積極的な解釈を委ねて、自分たちは客のリアクションなど構う素振りすら見せず、ただひたすらストイックにロックバンドとしてできることだけを追求していくゆらゆら帝国の姿勢には脱帽であり、勇気づけられもするが、一種の絶望と空虚感も与えられる。

ただ、ギターを置いてマラカスを振り振り踊り狂いながら歌うという、ある種非常に尖ってアイロニー特盛りなパフォーマンスを繰り広げておきながら、ラストに『星になれた』をやるというベタベタでウルトラカタルシスな構成で感動を与えてくれた坂本さんの振れ幅と心意気にだけは、100%絶対的に支持を表明したい。(藤本)

七尾旅人『歌の事故』@六本木SuperDeluxe

七尾旅人という超個人的なシンガーソングライターの肉体と精神より滲み、溢れ、垂れ流された幻覚にも似た四時間半にも及ぶ歌・ウタ・うたの海、それは『歌の必然的な連鎖』と呼ぶべきか。しかし、その歌の生まれる現場には、彼のライフワーク的なこの自主イベントの、タイトルでもありコンセプトとしても冠された《歌の事故》という言葉が表しているように、とうに飽和状態を迎えている既定のポップカルチャーの方法論を解脱した地平でしか発生しえない、スリリングな偶発性、緊迫感、衝動が溢れかえっていて、その場に居合わせた人間は、否が応にも、超個人的な水準での『歌』という非常に原初的で瑞々しいメディアを介したコミュニケーションを、七尾旅人という人間と、彼の紡ぐ歌物語、そしてその背後に渦巻く巨大な景色と対峙せざるをえない。
ひたすらに自嘲的なMCや、グダグダな進行に惑わされてはいけない。この体験を、この音楽を、凄いという言葉に包括される場所に位置付けてはならない。これは、そこらの団結の為の反戦デモや、温室生まれの学生運動なんかよりも、遥かに切実で社会的な音楽イベントである。(藤本)

冨永昌敬『コンナオトナノオンナノコ』(2007)@池袋シネマ・ロサ

おそらく冨永昌敬にとって物語を完璧な形で映画に昇華させることなど、何の意味もないのだろう。そんな信条をもった人間が、それでもどうにか物語を語ろうとする格闘の様子がどのシーンからも伝わってくる。それは時に痛ましく思えてしまうことさえあるが、しかし、だからこそ冨永昌敬は30歳を目前にした二人の女性が放つ一瞬の輝きを、見逃すことなくカメラに収めることができる。
その意味で、同じく家族の問題を描きながら「出産」によってハッピーエンドへ終息させる『バックマン家の人々』(89)とは、その物語的な共通点の多さとは裏腹に、対極をなすような映画かもしれない。(松下)

デヴィッド・リンチ『ロスト・ハイウェイ』(1997)@イメージフォーラム

僕もリンチのファンだっただけに最新作『インランド・エンパイア』(06)には、本当に幻滅した。どうせならこんな駄作を撮らずに死んでくれたほうがマシだった、とファンとしてあるまじき不謹慎な考えすら浮かんでしまうほどだ。しかし、一方でリンチのように独自の世界観を持っている作家の作品は、はじめての出会いの衝撃が強いだけに、その後いくら見続けてもそれを追体験することができないだけではないか、との期待と願望の混じった楽観的な疑問が残った。
だが、今日『ロスト・ハイウェイ』を見て、その仮説がまったくの見当違いであることがわかった。もちろん、『ロスト・ハイウェイ』にもマンネリ化した不可解な超越者とアイデンティティの崩壊といった主題にうんざりしないでもないが、先が見えない延々とつづく夜の一本道を激走してみせる冒頭のタイトルクレジットからして、否応なく観客をリンチワールドに引き込まずにはおかない。やはり、『インランド・エンパイア』はリンチとはこういうものであるという前提を必要とし、観客にリンチとつき合わさせることを強要する作家として暴力的で傲慢な姿勢で作られており、劇中にどんなことが起ころうが、何よりその姿勢が強く伝わってくるのである。
だとすると、『インランド・エンパイア』に欠けていて『ロスト・ハイウェイ』にあったものとは何だろうか。それは、例えば前半の室内劇から一変して、主人公の人格がピートという若い自動車整備士に移ってからの、疾走する自動車のアクションと金髪の美女アリスのエロティシズム、あるいはバイオレンスだったりする。まさにクローネンバーグの『クラッシュ』(96)と重なるテーマであるが、しかし、『ロスト・ハイウェイ』の自動車、エロス、バイオレンスは『クラッシュ』でのそれのようにイコールで結ばれるものではない。やはり、ここでも重要な支えとなっているのは、僕らの脳内世界としてのリンチワールドであり、その帰結として方向性を欠いた移動や性交や暴力といった外的な圧力が描写されるのである。
確かに、僕はリンチにリンチ以上のものを期待してはいないのかもしれない。しかし、リンチワールドとは『インライド・エンパイア』のような単に解釈を必要とする素材ではないのだと証明してくれるような次回作に期待したいと思う。これで死んでもらっては困る。(松下)

万田邦敏『接吻』(2007)@有楽町朝日ホール

住宅街へと続く階段をのぼる男はぐったりと頭を垂らし、ジーンズのポケットからは金槌の柄が飛び出している。男はこれから人を殺しにいくのだ。人を殺すことに理由がある必要はない。しかし、男には人を殺す必要があったのだ。
黙秘をつづけ死刑宣告を待つ坂口(豊川悦司)、坂口がテレビカメラにみせた曖昧な笑みに魅せられた女、京子(小池栄子)、そして坂口の弁護にあたる長谷川(仲村トオル)の三人の人物でこの映画は構成される。四方を厚い壁に囲まれた刑務所の面会室には、かろうじて小さな窓があり、わずかに入る光で天気や時刻がわかりはするが、その向こうに広がる世界がいったいどのような様相をしているのか、何一つ教えてはくれない。いや、この狭い面会室を出たところで、そこにあるのはテレビの音だけが響く京子の部屋にしろ、ベルトコンベアーの機械音が轟く石けん工場にしろ、あるいはゆるやかな風が若い稲を揺らす群馬の田園にしても、いずれもこの面会室とさほど変わらない閉塞感に満ちた世界でしかない。そんな空間では、沈黙の静けさは語られる声音より大きく聞こえ、また多くを語っているような錯覚を覚える。しかし、京子は坂口の声が聞きたいと思い、また声を聞くことで坂口の想いを確かめたいと思う。二人は沈黙の支配する世界から抜け出すように、会話を交わすようになり、互いに必要とし合っていることを確かめる。だが、二人が会話をする例の面会室は、中央を透明な板で区切られていて、京子の手に残った石けんの匂いも、いくつかの小さい穴を通してしか伝えることができない。二人が想いを通わせるのは、京子からの差し入れであったり、手紙であったり、長谷川を通してであったり、面会室の透明な板を通してであったり、常に制限された状況で何かを媒介することを強いる。そんな触れ合うことの許されない状況で、恋人たちが接吻することのドラマを僕らは考える。しかし、長く息苦しい世界に生きてきた二人にとって、接吻するということは単にお互いの愛を確かめ合い、結ばれぬ二人の悲劇のドラマを完了させるためだけの行為ではない。この映画のカップルが不条理に満ちていたのと同じく、いや、この世界が不条理であるのと同じく、それはもっと不条理であるべき行為なのだ。この作品のワールドプレミアに立ち会えたことを、心から嬉しく思う。(松下)

2008年3月 ユーロスペースにて公開予定