パスカル・フェラン『レディ・チャタレー』(2006)@シネマライズ

下半身の自由が利かない夫を持つチャタレー夫人の、息がつまりそうな日常生活。どれよりも優先してまず書いておきたいのは、序盤に映し出されるそういった何気ない描写がゆっくりとこの作品の映画的土壌を形成していくのを、自分の背筋にくる震えと共に確かに感じた、ということである。そのことはつまり、マリナ・ハンズ(チャタレー夫人)の表情や夫の体を洗う動作の一つ一つに、監督の誠実で丁寧な演出が濃縮されている、ということだろうと思う。映画が終わるその一瞬まで、パスカル・フェランの描いた映像に圧倒されてしまった。
心労の後、気分転換で森を訪れたチャタレー夫人は、そこで猟番のパーキンと出会う。それをきっかけにチャタレー夫人は屋敷と小屋を行き来するようになり、ついにはパーキンと関係を結ぶことになるわけだが、やはり、そんな彼女たちを包みこむ森のイメージはどうしようもなく忘れ難い。青山真治の『シェイディー・グローヴ』やベルトルッチの『暗殺の森』などの森と同じように鮮烈でありながら、それらとは違う表情の森を、映画的記憶としてパスカル・フェランは観る者に植え付けてくれる。ある意味、チャタレー夫人とパーキンの肉体関係に呼応するかのような鮮やかな森のイメージこそが、私たちにこの作品の官能的な表情を想起させる、決定的なファクターであると言ってもいいかもしれない。雨が降る森の中で二人が戯れるシーンは、今にもスクリーンからその官能的な瑞々しい森と雨があふれてくるかのような印象さえ受けるだろう。

あと、これは宣伝なのだが、シネマライズでは11月3日から9日までの期間のみディレクターズ・カット版の特別上映をしている。それ以降は手が加えられたヴァージョンでの上映とのこと。短縮版は30分以上(!)カットされているらしい。(高木)

白A『SIRO-A LIVE A ROOM バーコードマン』@せんだいメディアテーク7Fスタジオシアター

仙台発、地元を中心に数々のイベントに出演し、徐々に活躍の場を広げていっているパフォーマンス集団(HPにはTechnodelic Comedyとある)。その新作ライブ。映像と自らの身体を巧みに交錯させた最初のシークエンスを観て、正直やられた!と思ってしまった。この手があったか!と。その後も次から次へと色々な手法を使い(歌はうまいしそれこそテクノ系の音楽の絡みもいい)、会場に爆笑の渦を巻き起こす。突っ込み所もまったくないわけではなかったが、これはもっと宣伝して多くの人に観てもらえば絶対人気が出るぞと直感した。地域でこうした活動をしていくということの意味も同時に考えさせられた。(今野)
白A

ガス・ヴァン・サント『マラノーチェ』(1985)@シネマライズ渋谷 

「Mala Noche」の意味はスペイン語で「最悪の夜」。しかし何とも寝苦しい8月の東京の夜々に、このすばらしい作品が毎晩上映されているというのはちょっと素敵なことではないだろうか。ガス・ヴァン・サントのこの処女長編には確かに彼の後の作品に通じる要素がいくつも散見されるし、時に見られる技巧的な生硬さもむしろ若々しく抑えがたい才能の発露であると感じさせはするのだが、なんと言っても、ポートランドの薄汚れたちっぽけな町並みを背景に、近年の作品ではむしろ抑制されている叙情性が画面いっぱいに溢れかえっていることに目を見張らざるにはいられない。そして無為とほとんど同義である待機の時間のうちに醸し出されるこの叙情性を、いささか唐突かもしれないが、神代辰巳王家衛のある種の作品に結びつけたいという誘惑に駆られてしまう。(彦江)

中原昌也『フンペ・フンペ』@文藝 2007秋季号

執拗なまでに描かれる細部が、連想ゲームのように脱線に次ぐ脱線を繰り返し、ただ理由のない恐怖心だけを駆り立てていく。その恐怖が「絶望」に裏打ちされているのは、作中、中原昌也自身によって悲痛なまでに語られている。「中原昌也の次の動向に期待!」といった軽はずみな言葉は、口が裂けても言ってはいけない。(松下)

大江健三郎『死者の奢り・飼育』@新潮文庫

我が母校のOBである大江健三郎を読むのははじめてであった。授業で大里さんが言っていたように性器のことをセクスと書いていたのはとても興味深く面白かった。すごく読みやすく分かりやすかったが、描かれているものはとてもリアルな閉塞感でありどこかとても恐ろしいものであった。(上西)

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』@集英社文庫

なんてキレイな表現たちなのだろう。初めて読んでからかなり時間がたっていたせいかとても新鮮であった。日本語独特の色彩表現がつかわれ、宮沢賢治が夢見ていたであろう銀河の息遣いが聞こえる。さあ耳を澄まして読んでみよう。(上西)

太宰治『人間失格』@新潮文庫

周りの人物に対して道化を演じて、本当の自分の存在に気づかれるということに怯えている。これは多くの人がそうなのではないか。そして多くの人はそのことにさえ気づいていないのではないか。重要なことに気づかせてくれる本であった。(上西)