甲斐田祐輔『砂の影』@ユーロスペース

久々に426クロニクルに書いてみようと思う。好き嫌いの主観的な判断は差し引いて、見たほうがいい(かも)と思える映画を紹介してみようかと。

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映画が「反転」するとはどういうことだろう。
物理的な方法としては、画面の上下が逆さに入れ替わることもそのひとつだろう(『LOFT』の横画面もそのひとつかもしれない)。あるいは、思いがけず裏舞台としての撮影スタッフが介入するような事態も考えられる。キアロスタミの『桜桃の味』のように。
いずれにせよ、映画に「反転」が現れるときに明らかになるのは、僕たちは映画という本来的に異様なものを見ているという認識ではないだろうか。つまり、上映がはじまり次第に馴染みはじめるスクリーン世界に、突然ある種の膜が張られるのである。

砂の影』にはあらゆる「反転」が描かれていた。画面が逆さになることももちろんそうだし、映画――もっと広義には芸術が好んで描いてきた(自明な)死なるものを、不確定なものとして淡々と描いていた。「役者」である登場人物は、かつて映画で幾度となく死んだことだろう。しかしここでは何が何だか分からない。メタ構造とは説話がよく取る形態であるが、ここでもメタ構造があり(役者が「役者」を演じる)、しかもそれは「a-A」という単純なものではなく、「a-歪A」とでもいうような歪められたものだった。
口語的な台詞に支持される日常は、いつしかそこを超えている。そしてまた、ここにも「反転」はあった。8mmゆえの「砂のような」画面には、光と影からなる粒子=砂がいっぱいに溢れる。僕らの、「映画を見ている」という無自覚は、その膜=粒子=砂によって「反転」させられ露になる。
臭い、手、あるいはエンドクレジットなどについても言及するとさらに奥深いものが見えてきそうだが、とにかく『砂の影』は貴重な体験だった。(伊東)
ユーロスペースにてレイトショー上映